[肩を並べて In Spring //8]
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 水島邸は夕が丘市のベッドタウン、花咲町の高台にある住宅地に建っている。老後をゆっくりと過ごせるようにと建てたらしいこの家にはエレベータがついていて、一階がリビングダイニングと防音施設の整ったビアノルーム、キッチン、バスルームがあり、二階は大手旅行代理店に勤める夫と日本中を飛び回る妻の寝室と夫の書斎、そしてゲストルームがある。三階は物置部屋と一人息子の寝室と勉強部屋、そしてもう一つのゲストルームがあるが、伯父夫婦に三階には絶対に足を踏み入れるなと言い含められていたから、ルキはまだ一度も三階へ上がったことがない。
 平日の夜は二人とも留守にしているし、休日でも家にいることはほとんどない。ゲストルームには鍵が掛けられるし、そこまで神経質になることではないように思うのだが、娘のない叔父夫婦にとっては心配しすぎるということはないようだった。
「ルキ」
 リビングで就寝前のホットミルクを飲んでいると、この家の一人息子でルキの従兄であるメノウが声を掛けてきた。
 そう、こんな時。大声をあげても助けは来ないだろう。メノウも気を遣ってか、家族がいない時は一メートル以上の距離を保っている。
「何?」
 内心でそんなことを考えていることはおくびにも出さず、ルキは後ろを振り返った。
「引越し、明日だね」
「そうだね」
 風呂上りの濡れた髪のまま(ちなみに水島家のお風呂スタイルは欧米式であるから同じ浴槽の湯を使うといったことはない)右手に牛乳で満たされたグラスを持ったメノウはダイニングテーブルの椅子に座った。ソファに背中を預けたルキからはメノウの上半身だけが見える。スポーツマンらしく引き締まった体。日に焼けても黒くならない体質は血筋なのか、ルキと同じく白く滑らかな肌をしている。思わずルキは自分の腹をつまんだ。夏に向けて少しは鍛えなくては。
「その……ルキは、カレにオレのこと言った?」
「ううん……ずっと言わないつもり。何も無いのに心配させたくないし」
 白い携帯電話を無意識に触る。
「両想いってわかってすぐに別れて来ちゃったから……ただでさえ心配かけてるのにそんなこと言ったらすっ飛んで来ちゃいそうだし」
 えへへ、と笑うとメノウは「いいなぁ」と呟き左膝を抱えた
「オレのカノジョはやきもちさえ焼いてくれないんだから」
 ルキは全校集会で表彰を受けていた少女を思い出す。髪は短く、運動部の証である真っ白なソックスを膝まで上げて、まっすぐに前を向いていた少女。可愛らしいというより凛々しいその姿に嫉妬という感情は似合わないように思われるけれど。
「……やきもち焼いてないわけじゃないと思うよ」
 入学早々行われた健康診断の順番を告げにH組を訪れた時、水島と書かれた体操服を見た一人の少女の顔が一瞬曇ったのをルキは見逃さなかった。体操服に小笠原と書いていなくても、ルキは彼女だとわかっただろう。切なげに揺れる瞳に、ルキは胸が締め付けられた。彼女のためにも早く水島邸を出なければと、ルキは夕が丘市内のマンションを徹底的に調べ上げ、ゴールデンウィーク中に駅前の高層マンションを契約した。六月には両親もこちらに移り住むことが決まっている。
「メノウ君には本当に迷惑かけちゃった。小笠原さんには月曜日に引っ越したこと報告に行くから。ほんと、ごめんね」
「いや。オレからすれば、ルキの彼氏に刺されないかだけが本当に心配だよ。もしオレがそいつの立場だったから一発殴りたいもん」
「大丈夫だって、あいつはそういうことしないから」
「おとなしそうなやつほどキレると怖いって言うからな」
「もー」
 と、白い携帯が歌いだした。
「あ、『DISTANCE』。彼氏?」
 図星を指されて思わず顔が赤くなるのがわかる。メノウが手を振ってリビングから出ていくのを見送り、焦りながら通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
〈琉希〉
 一週間ぶりに聞く声に胸が震える。電話越しに聞こえる少し高い声が、ルキをあの海へ連れて行く。
「どうしたの?」
〈あー、声が聞きたくなって。ごめん。寝てた?〉
「んーん、寝ようとしてたとこ」
 ソファに座りなおし、クッションを抱く。
「そっちの調子はどう?」
〈変わりなし。高遠も相変わらず古川さんのこと追っかけまわしてるし〉
「あー、学年で一番美人な古川さん?」
〈なんかトゲあるなー〉
 電話口で笑う声が聞こえる。
 離れてから、彼は笑うようになった気がする。閉鎖的な学校から開放的な高校へ進学したせいもあるだろう。けれど、もしかしたら自分が彼を縛っていたのではないかと思う部分もある。ルキは彼が友人と声を上げて笑い合っているのを見たことがなかった。
〈琉希? どうしたの。何かあった?〉
「そっちこそ。お友達と一緒に鼻の下伸ばしてるんじゃないのー?」
〈まさか。だって琉希の方が綺麗だし〉
「……」
 こういうことを言う人じゃなかったのに。女好きだという友人に感化されたのか、こっちが赤面するようなことを言うようになった。
「……あんまりそういうこと言わないで」
〈えー何を?〉
「…………もういいよ」
 はぁ、とため息をつく。
〈ね、琉希〉
「なあに」
〈夏休みの予定って何か決まってる?〉
「一応夏期講習には行くつもりだけど」
〈さすがだな〉
「やっぱり選抜クラスは伊達じゃないよ。クラスから落とされるかもしれないと思うと受験勉強だけじゃなくて学校の勉強も手が抜けないし」
〈あー、だよなぁ〉
 それじゃぁ遊ぶ時間なんてないか。
「ん? 何か言った?」
〈なんでもない〉
 他愛無い話を続けていても、心の震えは止まない。恋しい人の声を聞く嬉しさと、彼が自分の知らない人になっていくような恐ろしさから、体までも震える心地がした。
「どの大学に行くか決めた?」
〈一応考えてはあるけど……琉希は?〉
「そうね……海洋学とか興味あるから、そういう方向で」
〈俺は……内緒〉
「えぇ? 何それ」
〈んー……笑うなよ? C大の教育学部。学校の先生になろうと思って〉
「へぇ。意外」
〈学校の先生になって、結婚して、家買ってさ。子供とか育てて……平凡だけど、そういう幸せな未来を大切な人と過ごせたらと…思う。……ぅあー恥ずかしい!〉
 ルキは立ち上がって窓にかかるカーテンを開けた。
「……ねぇ」
〈な、なんだよ〉
 その窓は小さくも、出窓でもなく、天井から床までの大きな窓で、潮の香りも手紙もない。あの街と同じなのは見える月の大きさだけだけれど、この夜空だけは彼のいる街と繋がっている。
 話して、その尊い未来のことを。
「その未来に、私もいる?」
〈……うん。ずっと、隣に〉
 ルキの頬を月光の雫が伝った。

2008.03.24


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