● 片手で本を読む、その仕種が。


 わたしが通学に利用する路線は都会と大都会の間を繋ぐ電車だから、朝のラッシュ時はひどく混む。それでも、始発近くの駅から乗り込むわたしはいつも座席に座ることができていた。座るのは決まって一番後ろの車両。一番端の、銀色の手すり棒の横は隣りの人に迷惑をかけずに寝ることができるからだ。
 終点のN駅までは三十分。軽い本を一冊読み終わるくらいの朝の時間を、わたしはまどろみながら過ごす。膝に抱えた荷物に顔をうずめて、がたん、ごとん、という音に耳を澄ませる。時折、駅に停車すると意識が浮上して、現実と夢のあわいを楽しむ。銀色の手すりに伸ばされた、グリーンのブレザーに包まれた腕。細めの身体の上には小さな顔が乗っていて、真剣な顔で本を読んでいる。片手に持っているのは文庫本で、使い込まれた黒革のカバーがかかっていた。
 カーブに差し掛かったのか、がたんと車体が大きく揺れる。慣れたようにバランスをとって手すりを掴んだその男子高校生がふわりと笑った。
 とたんにわたしは覚醒した。靄がかかったようにおぼろげだった電車の揺れる音も、遠くでこそこそと喋る女子高校生の声も、わたしの前に立って本を読む彼の存在も、鮮やかな気配を伴ってわたしの周りにある。
 ふっと笑った彼は手すりから手を離して口元を押さえた。その手でページを繰る。
 片手で本を読む、その仕種が。運動部なのだろう、日に焼けた元気な少年という印象にかすかな色気を添えていて。
 きっともてるんだろうな、とどちらかといえば整っている顔をちらりと見て思った。

 駅に着けば東と西に分かれ、何かが起こらなければ再会することもないはずだった。なのに、下校時間が同じ時間帯なのか夕暮れの中プラットホームに佇む彼を見かけることが多くなって、彼がサッカー部の一年生だということを知った。
 知ったからといって、何かが変わるわけではないはずだった。それなのに、今わたしの横には、わたしの肩にもたれかかり安らかな寝息を立てる彼がいる。
 幸せな時間は長くは続かないとわかっていても。それでも、きっとわたしは笑っていられる。


2009.12.16
Title by Abandon
Photo by 空色地図
タイトル部分に「あんずもじ」を使用しています。

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あとがき
 お久しぶりです。覚えていて下さって本当にありがとうございます。
 まずはこのお話を完結させることを目指して頑張りたいと思います。
 あと3話ですがお付き合いいただけると幸いです。


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