● 鈍感神経を持ったあの人に。 静かな館内にわたしたちの足音だけが響く。 ここでいい? と無声音で問う彼の唇を見てうなずく。 その唇が乾いて白くなっていることに気づき、思わず目をそらす。 定期テストが近いから、図書館で勉強しようと言ったのはヨシ君だった。 開館したばかりの図書館は、土日とはいえ人が少ない。 自習用の机も空いていて、わたしたちは窓際の向かい合った席を取った。 持込みの自習は許されていないので、形ばかり生物の図鑑を机の上に置く。 文庫の棚から現代語訳のついた持ってきたヨシ君は静かに席に着いた。 黒いハイネックのニットに、細身のジーンズ。小さめの頭。薄い唇。 軽く頭を振ってノートを開いた。 お昼は近くの百貨店の中にあるファミレスで済ませた。 彼はイタリアンハンバーグ、わたしはミラノ風ドリア。 同時に食べ始めたのに、食べ終わったのも同時だった。 わたしはジェラートを頼み、ヨシ君はコーヒーを飲みながらわたしを見る。 優しく微笑むヨシ君を見てると、時々思うことがある。 彼はわたしと一緒にいるべきじゃないって。 いつかショッピングセンターで彼の同級生にあった時。 女の子の何人かはわたしのことを睨んでいた。 わかってる。だけど、彼がわたしを抱き締めてくれる間は……。 もうちょっとだけ、夢を見せて。 館内に戻ると、空いている席は窓側と通路側に一席ずつしかなかった。 ヨシ君が囁き声でわたしを呼んだ。古文文法でわからないところがあるらしい。 立ち上がって彼の後ろに立つ。 気がつけは大きな窓ガラスの向こうは暗くなり、閉館時間が迫っていた。 これが終わったら帰ろう。そう囁いて、彼の肩口からテキストをのぞき込む。 源氏物語の、夕顔が怨霊に殺された後、屋敷に逃げ帰った光源氏の場面。 わたしは夕顔なのか、それとも……。 ヨシ君のシャープペンで重要な点を紙に書いて説明しながら思う。 彼は鈍感だから、わたしの悩みには気づかないだろう。 気づかれたくない、と思う。でも、ちょっとは気づいて欲しいとも思う。 彼からの告白に応えた形だったけれど、今のわたしは……。 駅までのバスの中、ヨシ君の手を握ったまま無言で外の風景を見る。 彼も無言のまま、わたしの手をぎゅっと握り締めたまま、外を見ている。 そっと肩に頭を乗せると、大きな手で頭を撫でてくれた。 「ふふっ」 「疲れた?」 「ううん」 「今日はありがとう、サトさん」 「こちらこそ。元素記号間違えるなんて恥ずかしい……」 小さな声で、他愛無い話をする。 ヨシ君といると、時間の速度と密度が上がったような気がする。 この夢から醒めた時、わたしは正気でいられるだろうか。 「ヨシ君」 「なあに?」 温かい声と鼓動に安心する。 まだ、わたしはこの人の傍にいる資格を失ってはいないのだと。 先払いのバスから降りて、電車を待つ間近くの児童公園へ向かう。 わたしがブランコに乗ると、彼はペンキの剥げかけた鉄パイプの上に腰掛ける。 動く度にきぃと鳴る古い遊具を不安そうに見ながら、彼はちょっと笑った。 茜色の空を見上げながら、わたしは言う。 「もう、二学期も折り返しだね」 「そうだね」 ヨシ君は進路について話さない。わたしも、何も言わない。 ここから一番近い大学を選んでも、わたしはこの駅を利用しない。 いままでと同じように会うことはできない。 「ヨシ君」 「なあに?」 温かい声がわたしに応えてくれるのをもう一度聞いて。 わたしはブランコから飛び降りて、ヨシ君にぎゅっと抱きついた。 「わっ! な、何? どうしたの、サトさん」 鈍感神経を持つ彼には、ストレートに伝えよう。 「大好きだよ」 そのかさついた唇にキスを贈って。
copyright(c)Choco Lemon All rights reserved.
|
|||