人魚姫と王子様・前編

 夏と言えば、蝉が鳴いて五月蝿くて、かき氷食べながら勉強するものではなかったか?
 小笠原明はそんな事を思いながら道路の端を歩いていた。
 中学三年生ともなれば、たとえエスカレーター式に高校へ上がれると言っても、やはり勉強しなくてはならない。
 だが、夏は暑い。
 だから六月の内にいっぱい勉強をしておこうと思ったのだが、今年の六月は暑かった。予定の半分も進んでいない。
 七月に入って最初の土曜日。陸上部所属の明は汗を拭きながら自転車に乗る。明の通う中学校は、ここいらではちょっとばかし名のある進学校で、明の住む場所から駅まで自転車で五分、駅から電車で十五分ほどかかる。
 地元の中学校なら、歩いて五分だったのにと母親に言われた事もある。
 でも、陸上をやりたいと思っていた明は、陸上部の無い中学校には行きたくなかった。
 きーこ、きーこ
 ゆっくり自転車を漕ぎながら、明はふと、その中学校の前を通って見る事にした。夏休みには入った事もあるが、生徒がいる時にのぞいて見たかった。幸い、この後急ぐ用事も無い。
 いつもは真っ直ぐ行く道を、ハンドルを切って左へ曲がった。

 街路樹の木漏れ日の下を通る時、明は目をつぶりたくなる。眩しい光がぱらぱらと降ってくるようでうっとおしい。ふと、空を見上げれば、雲一つ無い青空が広がっている。
 今日も絶対焼けるな……。
 そう思いながらも、日焼け止めクリーム独特のあの匂いが嫌いだから塗らない。
「暑いなぁ……」
 制服さえも通り抜けて突き刺さる日差しが痛くて、涼しくなる訳でもないのに声に出した。
 ……余計に暑い。
 緩やかな坂を下って行くと、学校の外壁が見えた。賑やかな声が聞こえる。確かこの学校にも水泳部があったような気が……。
 ばしゃんっ!
 大きな水音に驚いて、明は足を止めた。壁の向こうで歓声が上がる。
 飛び込みの音……?
 明はそっと校内に入ってみた。
 校舎の脇に作られているプールの周りにはフェンスが張り巡らされていて、その横にコンクリートで出来た入り口がある。毎年夏休みにはここのプールは開放されていて、明も泳いだ事があった。
 入って右側に更衣室があり、左斜め後ろの段を上がれば、プールサイドに出る。
「ホントすごい速いよね、水島君」
「なんか記録も持っているらしいよ」
 屋根のあるベンチの下で、水泳部員らしい女子達が話していた。明がプールに目を向けると、丁度ぶっちぎりでゴールした少年が、プールサイドへ上がっているところだった。
 うわっ、細い。良く泳げるな。
 そんな事を考えながら彼の後ろ姿を見ていると、その少年と目があった。
「あれっ、他のガッコの人?!」
 良く通る大声が響く。明は「見つかったか」と思いつつ謝った。
「すみません、入って来て」
「いや、別に良いと思うけど」
 少年はタオルを羽織り、ゆっくりと明の方へ歩いて来る。
「水泳部の人?」
「いや、陸上部」
「ふうん」
 明の顔を覗き込み、にこりと笑った。
「オレ、水島メノウ。あ! おまえ、夕が丘中学の小笠原だろ。うちのガッコの陸上部のやつらが、かっこいいって噂してた」
 五センチぐらい背の高いメノウに言われ、明は苦笑する。
 どう考えても自分の方が人気あるだろうに。
「けど、どうしておまえがここに?」
「家がこの辺なんだよ。帰り道の途中ですんごい歓声が聞こえたから、何事かと思って」
「速かっただろ」
 メノウが得意そうに言った。
「ああ。すごいな」
「おまえもすごいだろ。陸上だけじゃなくって、頭もいいんだって?」
「そうでもないけど」
 明がそう返すと、メノウは急にその場に座り込む。
「どうした?! 大丈夫か?」
「ああ。悪い。持病の外反母趾が進んで手術する事になってるんだけど、もう少しで大会があるだろ。足痛くても泳いでる間は大丈夫だからって、手術の日を伸ばしてもらってるんだ。今、痛み止めが切れたらしくて」
 そこにコーチらしき人がやって来て、二人の傍にしゃがんだ。若い女性だ。
「ちょっとだいじょうぶ? 水島、今日はもう帰ったら?」
「あはは、すみません。帰らしてもらいます」
「家、何処だっけ」
「四丁目です」
「あ、ボクも四丁目だ。良かったら自転車乗ってくか?」
 コーチは明にやっと気付いたらしく、顔を上げる。
「君、誰?」
「コーチ、こいつはオレの友達なんだ。丁度いいから送ってもらうわ」
 にこにことメノウがいうと、「そう、良かった」とコーチも言ってメノウを更衣室の方へ押しやった。
 思いも寄らない展開に固まってしまった明を見て、メノウは「ブイ!」とブイサインをして見せる。
 どうなってるんだ! と明は叫びたくなった。


「あー快適快適! やっぱり車より自転車、冷房より自然風だよな!」
 自転車の荷台に乗ったメノウは明の肩を掴み、足をぷらぷら揺らしながら叫ぶ。
「水島君、あまり暴れない方がいいだろ! 少し静かにしてろ」
「あー、そうだったな。悪ィ悪ィ。ってか、「水島」じゃなくて「メノウ」でいいって。友達だろ?」
「何時友達になったんだか」
 そう言いながらも、明はメノウに好感を抱いていた。ぽんぽん好きな事を言うが、ちゃんと筋が通っているし、嫌な思いもしない。きっと友達も多いだろうと思う。
「んな細かい事気にすんな。 それより、この後用事あるか?」
「いや、無いけど」
 メノウは首を傾げた明に、苦笑して見せた。
「うちに来るついでに、勉強教えてくれないか?」
「えっ?」
「うちの親さ、忙しくて。いつもはオレの部活が終わる頃に一回帰って来て、そのまま仕事に戻るんだけど。さっき連絡入れてみたら、今日も帰らないみたいなんだ。母親が数学の教授だから、わかんないとこ教えてもらおうと思っていたんだけど、無理そうだから」
 しばらく考え込んでから、明は肯く。
「うん。分かるところだったらいいよ」
「ラッキー! ありがとう、明ちゃん」
「……その呼び方はやめろ」
「えー。でも、可愛いじゃん小笠原」
 ロリロリ少女顔、気にしてるのに。
 明は溜息をついて四丁目の方に道を曲がった。
「で。何処なの? メノウの家」
「次の角を右。で、三番目の家だよ」
「ああ、あそこか」
「知ってるのか?」
 身を乗り出してメノウが問う。
「知ってるも何も、ここらで一番大きな家だから、知らない人なんていないよ」
「……ま、金だけは余るくらいあるからな」
 右に曲がると、緑の屋根の、三階建ての大きな家が見えた。
「ここだろ?」
「ああ。ありがとう。自転車は車庫に止めておいて」
「了解。お邪魔します」
「どーぞー」
 車庫に自転車を止めると、黒い門を開けて敷地内に入る。庭は花や木が植えられていて、とても華やかだ。メノウに訊くところによると、父親の趣味なのだそうだ。
 茶色い木で出来たドアの中は、とても広かった。入ってすぐリビングルームがあり、その奥にはカウンターキッチン。階段はその部屋の吹き抜け部分にあった。
「二階は両親の部屋。オレの部屋は三階だから、エレベーターで上がる」
「え、エレベーター?!」
 確かに階段の横には普通に見るようなエレベーターがある。
「さ、乗って」
 明るい木目調のエレベーターに乗り込み、三階へと上がった。
 一階全てがメノウの部屋だという三階は、とても綺麗に片付いている。自分の部屋とはえらい違いだ、と明は思った。
 この階には東西南北と部屋が四つあるらしいのだが、メノウが明を招き入れたのは、北側の部屋だった。
「ここが勉強部屋なんだ」
 綺麗に片付けられた青いマットの置かれた机に、ノートパソコンと教科書が並べられている。
「壁に立て掛けてある椅子、使って。今、茶でも出すから」
「お構いなく」
 八畳ぐらいの広さだろうか。何も模様の無い壁に、何枚かのポスターが貼ってある。それらは全て、あまり詳しくは知らない明でも知っている、世界で活躍する水泳選手達のポスターだ。
 明がポスターに見入っている間に、メノウは部屋の隅に置かれていた小さな冷蔵庫から、良く冷えたペットボトルとコップを二つ取り出して、シルバーのミニテーブルに置いた。そのテーブルと同素材のオーディオコーナーだけが無機質な雰囲気を持っていて、どこか浮き上がったような印象を受ける。しかし、それがあるからこそ、同い年の少年の部屋だと見える。そう、明には感じられた。
「ほい。飲みながらやろーぜ。喉渇いてるだろ」
「ありがと」
 明は麦茶を一口飲んでから、教科書を手に取った。丁度具合も良いので、ミニテーブルに教科書を広げてやる事にした。
「で、どの辺?」
「ほらあれ。『いくつかの一次関数が作る、図形の面積を答えなさい』ってやつ」
「あー。あれかぁ」
 メノウからノート代わりだというルーズリーフを受け取り、教科書から探し出した問題を書き写す。さらさらとシャープペンが紙を滑る間、メノウは明の栗色の髪が揺れるのを見ていた。
「さて、と。出来た。んーと、やり方だったよな。まずはこの式の傾きを求める。傾きの求め方は知ってるだろ?」
「ああ」
 大きくて丸い瞳がこちらを向いたのを見て、やっぱり家に連れて来たのはまずかったかと思う。
 メノウが初めて明に出会ったのは、実は二年も前の事だ。同じ学年の友人の応援で、陸上の記録会というものに行った時に、とても速い奴がいるというので見に行った。丁度友人は走り終わり、着替えてくると言い残しロッカーの方へ行ってしまったので、メノウは手持ち無沙汰でその辺を歩いていた。
 ぱんっ!
 飛び込みの時に聞く笛の音とはまた違うピストルの音が、真っ青な空に響き渡った。
 短距離の選手達が、一斉に走り出す。
 ……速い!
 一人だけ大差をつけた選手がいた。メノウから見ても綺麗なフォーム、華麗なリズム、規則正しい息遣いが聞こえるかのようないきいきとした走り。
「…………すげぇ」
 ぶっちぎりでゴールした時には、着替えて来た友人も思わずそう漏らしてしまったほどである。
「今のアイツ、なんかメノウに似てるな。めちゃくちゃ速いトコとか、すっげーフォームがキレイなトコとか。
 なんか、本当、生きてるっ! って感じがさ。似てるよ」
 彼は今、陸上部にはいない。階段で転んで足を痛め、それからは思うようなタイムが出ずに、二年生で辞めてしまった。
 でも、彼は楽しそうだった。メノウから見れば、彼の方が「生きてる」ように見えた。
 明の姿が目に焼き付いて、ずっと離れなかった。
「で、こことここの長さを掛けて三角形の面積を求めれば、終わり!」
「おっ、ホントだ。以外と簡単に出来たな」
「そう? じゃ、ひとりでやってみてよ、この問題」
「げっ、今のより全然難しいじゃねーかよっ! 卑怯だぞ、小笠原!」
「え〜っ、どこが〜?」
 にやにや笑う明と教科書を睨みながら、メノウは思う。
 明に数学を教えてもらおうと思ったのは、単なる思いつきだった。久しぶりに明の顔を見て、話してみたいと思った。ただそれだけだ。
 でも、こうやって少し話しているだけなのに、少しづつ、少しづつ、惹かれてゆく。
 まるで磁石のようだというのは、この事なのか。
 初めてプールの中に飛び込んだ時みたいな、あの心地良い重力感。
 ……水が地面に吸い込まれて行くように、人魚が陸の王子に惹かれるように。
 理由の無い、ただそれは定められた定義、そして出来た公式。
 欲望ではなく、本能に刷り込まれている想い。
「……なぁ、小笠原」
「何?」
 明の日焼けした手を掴んで、メノウは言う。
「来週の大会。すっげー速い奴と当たるんだけどさ、もしそいつに勝ったら……」
「勝ったら……?」

「キス、ちょうだい」

2004.07.15

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(photo : 'pure)

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