空へ駆けあがる


 無機質な金属の塊は騒々しい音を立てるから、音を止めるために僕は携帯電話を拾い上げた。この番号を知るのは母親の他には一人。それ以外には頑なに教えるのを拒むのは、ただ面倒だというだけではない理由がある。
〈遼ー!〉
 甘く優しい声が僕の名前を呼ぶ。その声は郷愁と喪失感と痛みを伴い、僕の存在を思い出させる。
〈ね、お花見、お花見行こ?〉
「花見? なんで」
〈えー、だって、桜満開だよ〉
「こちとら毎日花見してんだ、わざわざ出掛けるほどのもんじゃねぇよ」
〈あー、佐久校の桜、有名だもんね〉という言葉を電話越しに聞きながら、僕は積み上げた荷物の一番上に置いたアルバムを開く。天鵞絨張りのアルバムの上に乗せられた厚紙の表紙のアルバムは、何度もめくられた痕がついてぼろぼろになっている。その中の、低学年の小学生がたくさん写った写真のページを開けて、僕は座布団の上に座った。
「大体、花見ってどこでやるんだよ」
〈えー…伊佐垣牧場?〉
 きゃはは、という笑い声。
「おまえなぁ。伊佐垣ってこっから何時間かかると思ってんだよ」
〈もー。だからさ、帰ってきてよ。こっちに。次の週末でもいいからー〉
「来週には桜も散ってるぞ」
〈もう! わかってるくせにー〉
 憤慨する幼馴染に、思わず笑い声が漏れる。

 『ねぇリョウー。おままごとしよーよ』
 『おままごとって、なにするの?』
 『えーっとね、おかーさんがおりょーりして、おとーさんがただいまって!
 で、こどもがおかえりなさいってするんだよー』
 『ふぅん。で、だれがおかあさんやくなの?』
 『わたし!』
 『あたりまえだろー、おんなはセーカしかいねぇんだから』
 『で? おとうさんやくは?』
 『もちろんハ……』
 『リョウとハルカ!』
 『『え?』』
 『ふたりとも! だよー』
 『あのね、セーカちゃん。おとうさんは』
 『ひとりだけなんだぞ』
 『えー、だめだよ、セーカのおむこさんはふたりなの!
 だってふたりはふたりでひとつでしょ? おばさんがいってたよ』

 永遠に続くはずだった幸福な時間。厚紙のアルバムに貼られた三人の写真は、五年生のページで途切れている。六年二組の集合写真には、今沢遥の顔だけが無く。
 同じ顔をした瀬尾遼だけが、レンズをただ見つめていた。
「なぁ……星香」
〈んー?〉
「父さんは元気か?」
〈元気だよー。何、まだ家に電話入れてないの?〉
「いや、一応メルアド変更のメールは送ったんだけど、返信なかったから」
〈もー、その連絡の取り方おかしいって。メルアド変更しましたメールで近況報告ってさ。おばさんにもそうやってるの?〉
「母さんからは強制的に電話がかかってくるから、それで」
〈あの……その〉
「遥? あいつとはしばらく喋ってないな。もう英語しか喋れないんじゃないか?」
〈リョーウー。ウィーンはドイツ語だよー〉
「そうだったか。まぁ似たようなもんだって」
〈似てないよー。いっひりーべだよ?〉
「なんだよそれ」
〈んー、なんだっけね〉
 日焼けたアルバムを閉じて立ち上がると、三年前から変わらない青と緑の縞模様が風にはためいて視界を横切った。初めて与えられた一人の部屋に置かれたのは二段ベッド。未だ空いている上のベッドにはベッドマットだけが平たく敷かれ、ベッドカバーが掛けられている。
 離婚した両親は双子の息子を分けることをしなかった。二人ともを母親が引き取り、父親は数年後に幼馴染の父親となった。ただそれだけ。変わってしまったのは、片方が遠くへ行ってしまったこと。それに母親がついて行ってしまったこと。
「星香は連絡取ってないの?」
〈毎年クリスマスカードは交換してるけど〉
「あー、だろうな」
〈なによその反応〉
 昔と変わらず鈍い幼馴染に苦笑しつつも安心する。
 二人で一つだったはずの兄は才能を認められて留学した。
 何も無かった自分は彼女の元に残った。
 同じ日、同じ時に生まれたはずなのに、いつも僕よりも一歩先を歩いていた遥。置いていかれまいとしていつでも手本にしていた存在は、遠い場所へ行ってしまってもまだ僕に強い影響を残し続けている。
 遥はあの約束を覚えているだろうか。

 『約束だからな! 俺は絶対向こうで成功してからじゃなきゃ戻ってこないから』
 『成功って……ハルカ、まだ学校だって決まってないのに』
 『いや、俺は絶対成功する。だからリョウ、おまえは陸上を頑張れ。
 俺は音楽で、リョウはスポーツで、世界を目指すんだ』
 『世界はちょっと……どうかな』
 『とにかく、十年後に星香の前に並ぶまで抜け駆けなしだからな!』
 『え、ええっ!』
 『俺はぜってー負けないからな!』

 置いていかれたくない。その場所に並び立ちたい。……負けたくない。
 中学に進学してからは徹底的に遥の真似をした。控えめでおとなしいと言われていた僕は積極的になり、生徒会長に推薦されるまでになった。
 才能と呼べるものは何一つなかったけれど、僕は走ることが好きで、他人よりも少しだけ早く走れた。それだけを頼りに高校を受験した。
 僕は遥がいるから存在する。遥にとって、僕は星香がいるから存在する。星香にとっては……僕がいるから、遥が存在する。でもそれは僕の方が傍にいるからで、心の中での重要度は遥の方が上だろう。
 たった一人の兄。ただ一人の兄弟。双子が双方を分身のような片割れと呼べるのは、ずっと傍にいられたからだろう。僕は正直、遥を片割れだとは思えない。自分よりも優秀な兄貴。それだけ。あいつが一体どんな人間かなんて、長年会ってないのに他人に説明できるはずがない。幼馴染よりも遠い人間だ。
 髪の色は同じだろうか。背丈は? 声色は? さすがに目の色は同じだろうが、僕は中学の時歯の矯正をしている。生まれたままであれば全てにおいて同じだったかもしれないが、もう同じではない。鏡をのぞけばあいつがいる、なんてことはないんだ。
〈元気かなー、遥〉
「母さんが何にも言ってこないんだから元気だよ」
〈またそーいうこと言って。……ねぇ、なんでこっちの高校受けなかったのよ。夕が丘なら小さいけど寮だってあるし、陸上の名門校じゃん〉
「……まぁな」
〈そうやってしらばっくれる気なんでしょ。……もういいよ、お花見の席でぐでんぐでんに酔っ払ってから訊こうと思ってたけど今教えてもらう〉
「おい、俺ら未成年だぞ」
〈なによ私もう十六、結婚できる歳だし。遼だって十六なんだから立派に大人よ〉
「前半の理論を使うと俺はまだ子供だ結婚できないからな」
〈ちぇー、揚げ足取り。……で、どうして戻ってこなかったの?〉
「……おまえ、本当に知らないの?」
 母方の祖父の家は広い敷地の真ん中に建てられており、僕の部屋からは道路に面した門が見える。門の前に音を立ててオンボロの軽トラックが止まった。
「おまえさっき言ったじゃん。十六になったから結婚できるって」
〈……それが何の関係があるのよ〉
「よーく考えてみろよ。まぁ今日中にそっちにも連絡が行くと思うけど」
 トラックから降りた祖父が大きな声で僕を呼んでいる。助席に乗っていた女性は荷台に寝転ぶ男を降ろしにかかっている。
「おーい遼! 手伝ってくれ」
「はーい。……じゃぁな」
 携帯電話をパーカーのポケットに入れて、階段を下りて玄関でサンダルをつっかけると、トラックに向かってのんびり歩く。無駄に大きな門を開けると、門の前に立った二人が僕を見る。
「久しぶりね。……また大きくなったんじゃないの?」
「そうかも」
 二年ぶりに会う母親は目を細めて僕を見る。その後ろに立っていた僕と同じ顔の男は小さく目を見張って、僕にぎこちなく笑いかけた。
「うわ、背丈まで同じだ。何年も離れてたのにDNAってすげー」
「懐かしいでしょ。遥よ」
 四年ぶりに会う兄は恐ろしいほどに僕と瓜二つだった。ただ、部活で日に焼けた僕とは違い、抜けるように肌が白い。
「……久しぶり」
「おう。元気だったか?」
「ぼちぼち。そっちは?」
「まぁな。それより白い飯が食べたい」
 遥が小さく笑って母親を見た。
「おふくろがどうしてもこっちに寄るのが先だって言うからさ。今日起きてから機内食しか食べてないんだよ」
「あーはいはい、わかったわよ。まったく成長期の男は口を開くと腹減ったってうるさくて嫌になるわ」
 赤いハンドバッグを振り回す背中は何年経っても大きく見える。その背中を追って歩き始めた兄に続いて家の中に入ると、祖母が満面の笑みで兄を迎えた。
「まぁまぁ大きくなって。……おにぎり握ってあるからね、たんとお食べ」
「漬物がある! 俺、おばあちゃんの漬物大好き! 送ってもらったのとか俺が全部食べてるんだけど、向こうじゃなかなか米食べられないからさ。いつもパンと一緒に食べてたんだ」
「あれまぁ。それじゃ、今日はご飯と一緒にお腹一杯に食べてねぇ」
「はーい!」
 元気良くリビングに入った遥は僕を振り返って、
「洗面所どこだっけ?」
「ああ、こっち」
 鏡の前に並ぶと同じ顔が二つあって違和感がある。
 コートを置いてきた母親が後ろから言うには、
「オセロみたいだね」
 言い得て妙。

「いただきまーす!」
 目の前で兄は口の周りにご飯粒をつけておにぎりを頬張っている。
「遼、高校はどう? 陸上部は? レギュラーにはなれそう?」
「まだ入部したばかりだからわかんないよ」
「おふくろ何言ってんだよ。去年だって女子の小笠原、男子の瀬尾って地元紙に載ってたような人間外すヤツなんかいないだろ」
「ちょっ! 何で知って」
「もちろんおばあちゃんが毎回コピーして送ってくれてるのよー」
 お味噌汁をすすりながら母は嬉しそうに僕を見る。
「遥ってばおばあちゃんからエアメールが来るのすごく楽しみにしてるんだから。遼の載ってる新聞の切抜きが入ってるとすごく嬉しそうに報告してくれるの」
「ちょっ! おふくろバラすなよ」
「いーじゃないの。……遥はずっと遼のこと気にしてたのよ。遼が遥のことを気にしてたのと同じくらい」
 リビングの壁には遥が去年の音楽コンクールで優勝した時の写真と、僕が全国大会で二位に入賞した時の写真が並んで飾られている。
「……でも、俺の方が負けてるよ」
「何言ってんのよ」
 母は優しい顔で僕の頭を撫でた。
「どちらも頑張ってて、ママ、嬉しい♥」
「キモいから」
「遼」
 手についているご飯粒を食べながら、遥は僕を見る。
「あの約束、覚えてる?」
「約束?」
 僕の頭から手をどけた母と祖母は首を傾げるが、僕はうなずいた。
「もちろん」

 『いつだって俺は空に向かって弾くから。星香と遼に聞こえるように』
 『わかった。それなら、僕は空に向かって走るから』

 空へ。先に走り出した兄を追いかけて。その高みへ駆けあがるように。
「もちろん、覚えてるよ」
 パーカーのポケットに入れた四角い金属の塊を確かめる。
「今週中には行くんだろ? 夕が丘。さっき星香から花見行きたいって電話あったから、遥が一緒に行きなよ」
「マジで? だったら三人で行こうぜ。ついでに携帯選ぶの手伝え」
「星香に選んでもらえば?」
「やだ。俺一人に父さんと星香のお守りさせるわけ?」
「……ったく、わかったよ」
「俺のメモリー一番は星香だからな。仕方ねーから遼は二番だ」
 無機質な金属の塊は、これからも僕が僕であるということを思い出させる機械であり続けるだろう。
「じゃ、俺のメモリー、三番は遥だな」
「なんだよそれ。遼って実は友達少ない?」
「うるせー」
 電話から流れる声は、いつだって遥を思い出させる。
 おまえは遥のできそこないの弟だと。おまえよりも遥がここにいればよかったと無言のまま言われているような気にさせる。
 だけどこれからは。勝負する相手が傍にいる今なら。
「三年間は日本にいるんだろ? ……負けないからな」
「……ったりめーだ。容赦しないぜ」
「こっちの台詞だ」
 右の拳をつき合わせて笑う。
 必ず並び立ってみせる。
 遥の弟としてじゃなく、遼として。
 星香は誰にも譲らない。
 同じ色の目も、同じことを言っているような気がした。

END.
2008.04.07
タイトル部分に「あんずもじ」を使用しています。
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